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「旅」
ふらっと来た古い旅館だったけれど、意外とよかった。
安いわりにご飯はなかなか豪勢で満足したし、窓際から見える海辺は私の疲れた心身に深く心地よく響いた。
今日は随分と歩いた気がする。あまりにもハードすぎるスケジュールをこなして、上司からは理不尽に怒鳴られて、仕事は他の社員の分まで強いられ、課長にはキモい触られ方して、帰宅はいつも日付を超えた頃に新宿から終電に乗る。おまけにキモい自称イケメン平社員君は「俺の家に泊まっちゃう?」とか言い出して。
そんな生活をするうちにどうしようもなく嫌な気持ちが脳内から溢れて、いつの間にか意識が途切れて、気がつけばこんなところまで来てしまっていた。
会社にも連絡していない。鳴り止まなかったスマホは途中で海に投げ込んだ。
いつからこんなに人生を間違ってしまったんだろうか。
そんな後悔が頭を過ぎる度に、過去の良い思い出に耽ってしまう自分に気が付いた瞬間、
生きることをやめたくなってしまった。
死のうかと思ったがそんなやる気すら起きてこない自分に腹が立っていた。
「散歩…してみるか…」
座ったままでいると嫌なことばかりが頭を過ぎるので歩いてみることにした。
行くあてはないが、旅館にはもうお金は払っているし、ここで行方を眩ませたとしても誰も文句は言わんだろう。
足を進める。波際が静かに擦れる音が心地いい。
夜の海辺はなんとなく不安になる。同時にその不安が今の自分に寄り添うようで、安心する。
死んだ後は幽霊になってずっとこうして歩いていたい。
「じゃあ死ぬの?」
「…え?」
急に後ろから少女の声が聞こえた。
振り向くとそこには、”翼の生えた少女”がいた。
「死ぬの?」
「…死なないよ。」
少し口をパクパクとさせた後、なんとか答えていた。
なんだろう。こういう時はびびったり驚いたり、そういう反応をすべきなんだろう。
しかし、今日はよく晴れていて、海の神秘的な光景にもあてられて、なぜだかしっくりと収まってしまっていた。
「普通は驚くもんだよ。」
フフフと笑いながら少女は言う。
「…あ、わかった。コスプレ?」
「違うよ。」
「ふーん…」
「なんで死なないの?」
「なんでって…そんなやる気すら起きないから。」
「へー。」
なんで死なないのか。そんなこと聞いてくる人間を初めて見た。上司のパワハラすらそこまでは言われたことない。いや、そもそも本当に翼が生えているならこの少女は人間ですらない。
「…なんか私に用事?」
「うーん、いや、なんだか死にそうな予感がしたから。」
「それはどうも。死んだら連れってくれるの?」
「そうだよ。」
「死神?」
「うーん。この世界の人はよく天使とか言うけどね。」
「あそう。」
「興味なさそうだね。」
「…湧かないよ。いつの間にか…他人にそんな感情が湧かなくなった。そんなこと考える余裕なんてなかったから…死ぬ余裕さえなかったし…。」
「ふーん」
「…興味なさそうだね」
「うん」
「…。」
沈黙の中二人の足音と漣だけが辺りに響く。
「何が好きなの?」
唐突に少女は質問して来た。
「急に何。…漠然としすぎて思い浮かばないし。」
「なんの食べ物が好きなの?」
「めかぶ」
「どうして好きなの?」
「食感が好き。後ビールにあう。」
「好きな漫画は?」
「最近読んでない。あ、でも連載が終わってない漫画がある。」
「猫派?犬派?」
「猫派」
「好きな習い事は?」
「特にない。」
「昔の将来の夢は?」
「…」
「ないの?」
「いや…ある。」
「なに?」
「いや…」
言い出せない。恥ずかしいわけじゃない。叶わないってわかってしまってから、ずっと避けていたから。口に出せない。本気だったから。でも、親に反対された。金額は自分で賄えるような金額じゃなかった。冬季講習ですら自分で支払える金額じゃなかった。まさかそれで食べていくわけじゃないよねって言われて。そんなわけないじゃんとか作り笑いして。
…。
そういえばあの頃からだった。自分のしたいこととか、自分の考えとかを押し殺して、周りにわせて愛想笑いして。そうやっていれば敵を作らないでいれた。私は誰かと争いたくなかった。自分は誰かが描く人間でなければならないと、自分は自分で居てはダメだと、そういう風潮にただ従っていた。
なのに、どうして、ノートに落書きするのを止められなかったんだ。
部屋で一人の時にネットでイラストレーターを追っかけてたんだ。
好きな漫画の好きなキャラクターを模写したりしてたんだ。
イラストの雑誌を定期購入してたんだ。それを母親に見つからないようにエロ本隠す思春期の男子みたいに本棚二重にして奥の方に隠してたんだ。
全部全部ただただ、
…諦められなかっただけじゃないか。
「早く言わないと死んじゃうよ。」
「は?」
「後10秒」
「あんた何言って…。」
「後6秒」
「ちょっと、待って…」
「4」
口にするのか。
「3」
きっと死なない。でもまた逃げるんだろうか。
「2」
いやもし…死ぬくらいなら、いいか。
「1」
「私は…本当は絵が描きたかったんだ…。」
「0」
その瞬間、前方の道路から走ってきたトラックが転倒した。大きな音を立てながら地面を引っ掻く音が辺り一面にこだました。トラックがスライドしていくのと同時にこちらに向かってくる物体を目視した。タイヤだった。とてつもないスピードでこちらにくる。
まずい、避けきれない。
”死ぬ。”
あまりの恐ろしさに目を強く閉じて体は少しでも避けようと大きく体制を崩した。
次の瞬間、タイヤは目の前で…空中で止まった。さっきまで後ろにいた少女は私の目の前に来ていた。
「じゃあ、まだ死んだらダメだね。」
「え…。」
「教えてくれたお礼。」
私は、振り返りながら笑う彼女を、神々しいと思いながら
ただただ、見つめることしかできなかった。
「…ありが…とう…。」
「うーん。いいよ。」
彼女はタイヤをゆっくりと地面に置くと再び浜辺を歩き始めた。
少しだけ竦む体を起き上がらせて、彼女についていく。
「怖かった?」
「そりゃ…」
「本当なら死んでるね。」
ケラケラ笑いながら彼女は言う。いや、笑い事ではない。
ため息をつきながらその彼女についていく。
「絵、描かないの?」
「…分からない。」
「そっか」
「でも…できることから初めてみようと思う。」
そう伝えると、彼女はこちらを見てニシシと言う顔を浮かべた。
「ドーハス」
「え?」
「それが私の名前」
「どういう意味?」
ニヤリと笑って彼女はその大きな翼を羽ばたかせた。
「じゃーね。また会おう。」
あっけに取られたまま彼女を見つめる。
大きく一振り羽を振るうと、彼女の体はふわりと宙に舞った。
風圧に押される。あっという間に彼女ははるか遠くまで飛んで行ってしまった。
「…会社、やめよ。」
ため息混じりにそう一言つぶやく。
随分と歩いてきた道を振り返る。気がつけば結構歩いてしまっていた。
それでも、歩いて戻る。
本当に行きたい場所へ向かうために。